不安でいられるのは本当に安心できるものに出遇えたから、安心して不安でいられるのである。心の底から不安であるからこそ、その不安な心の、自分でも気が付かない闇の底まで、重誓名超声(聞)十方と重ねて今、すでに、口に称えられる、なんまんだぶが正念なのである。
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どんだけ美味いもん
口に入れても
慈海の身からは
糞しか出て来ん
糞まみれの糞袋から
なんまんだぶ
あ、佛さんがでなさった
讃岐の床松(しょうま)さんという方が江戸末期から明治時代にかけていらっしゃった。
お念仏をよろこばれた御同行。
床松さんの残された言葉や逸話は数多くあるがその中に
「この袋は置けとあれば置きもしようが、胸のうちのくそ袋を下げながら御前へでるがおそれおおい。」
というのがある。汚い袋を持っていた床松さんが、興正寺派の御門主の前に出る時、その袋を置いていくように言われた時の言葉。
慈海はまさに糞袋。
「糞」とはよく考えられた漢字だなと思う。
米が異なるとかいて、糞だ。なんとも言い得て妙だ。
どんだけ美味いもんを食っても、私の体からは糞しか出てこない。
どんだけいいお話を聞いても、私の口からは妄語(うそ)、両舌(二枚舌)、悪口(わるぐち)、綺語(飾り立てた言葉)しか出てこない。
そんな私の身から、口から、
「なんまんだぶ」
と佛さまが出てくんなさる。
こんな驚きはない。こんな不思議はない。
糞まみれの糞袋から、なんまんだぶ と佛さまが出てくんなさる。
もったいない、もったいない、あんがたいこと、なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ「影」
光だけでは影はなかった
我が身だけでも影はなかった
慈海がいるから慈海に聞かす
佛の呼び声 なもあみだぶつ
「聞」
見えんもんは 聞くしかしゃあない
百聞は一見にしかず というなら
百ぺん聞いたらよろしかろう
名となって我が口から飛び出て
我が耳に聞く佛のすがた
南旡阿弥陀佛
(まことに知んぬ: 「聞」から)
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